木村榮一氏(神戸市外国語大学・名誉教授)

ここ数年、スペインの現代作家の作品を次々と日本に紹介しておられる木村榮一氏。もともとはラテンアメリカ文学がご専門の木村氏に、スペイン文学との出会いを語ってもらいました。

スペイン文学との出会い

木村榮一氏(神戸市外国語大学・名誉教授) 以前勤めていた神戸市外国語大学は、アルカラー大学と教員の交換協定を結んでいた。その関係で4、5年に一度向こうで日本語の授業を担当していたのだが、10年ほど前に赴任したときに、ハンガリー語の先生マルタさんと親しくなった。いかにも東欧の農婦といった感じの彼女は、豪放磊落な性格で、少しおっかないところはあったが、誰からも愛されていた。本来は語学の先生なのだが、文学書もよく読んでいたので、ぼくとは話が合った。ある日、教員控え室で顔を合わせると、突然向こうからこう切り出した。

  「木村、あなたはラテンアメリカ文学の話ばかりして、スペイン文学には見向きもしないけど、スペインの現代作家の中にもすごい人がいるわよ。先だって、知り合いに勧められてフリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』という作品を読んだんだけど、すばらしい小説だったわ。あれはぜひ読みなさい」
 フリオ・リャマサーレスという名前はそのときはじめて耳にしたが、ほかならないマルタさんの勧めだったので、早速中心街にあるセルバンテス書店に足を向けた。ここの書店主も読書家で、大学への行き帰りに立ち寄っては文学談義をするのが日課になっていた。店主にリャマサーレスの『黄色い雨』の話をすると、それなら店にあるといって、書棚から取ってきてくれた。宿舎に帰って早速読みはじめたが、一語一語鑿(のみ)で刻み付けるようにして書かれた、簡潔で切れ味のいい詩的な文体で語られる物語にたちまち魅了された。

  ピレネーの山奥にあるアイニェーリェ村は過疎化が進み、村人が次々にいなくなり、最後に一組の老夫婦と1匹の犬だけが残される。老夫婦には息子が2人いたが、長男はスペイン内戦のときに徴兵されて消息不明になり、次男は家族を捨てて、村から出て行った。誰もいない村での暮らしに耐え切れなくなった妻は、やがて首をつって死に、老人がひとり残される。それでも、日々の暮らしがあり、彼は村にしがみつくようにして生きていくが、ある日かわいがっていた犬に、死の象徴であるポプラの枯葉色をした影が落ちているのに気づいて、最後まで大切に取っておいた銃弾で撃ち殺すと、自らもベッドに横たわって死の訪れを待つ。

  死が色濃く影を落としているこの作品は、一見救いのない世界を描いているようだが、作者は死を手元に引き寄せ、徹底的に見詰めることで昇華させ、言葉の力によって詩にまで高めており、読むものの魂を揺さぶらずにはおかない。マルタさんのおかげで『黄色い雨』に出会えたことはぼくにとってこの上ない喜びだったが、その後ある人の紹介で作者のリャマサーレス氏に会うことができ、その誠実で、いかにも繊細な詩人らしい人柄に触れることができたのも僥倖だった。以後、『狼たちの月』『無声映画のシーン』『マドリッドの空』『熱い、けれどもむなしい情熱』などはぼくにとってかけがえのない作品になっている。

  エンリーケ・ビラ=マタスの作品との出会いも偶然だった。イタリア文学研究者の友人と雑談をしているときに、彼がふと思い出したようにこう言った。

  「そうそう、先日ポルトガルへ行って、タブッキに会ってきたんですが、そのときにスペインの作家ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』という作品がとても面白いので、一度読んでみるようにと勧められたんです。イタリア語訳が出ていたので、目を通してみたのですが、なかなかよかったです。一度、読んでみられたらいいですよ」
 あのタブッキが絶賛しているのなら、ぜひ読まなくてはと思い、早速取り寄せて目を通したが、苦いユーモアをたたえたこの作品も一気に読んでしまった。ものが書けなくなるという奇妙な病気《バートルビー症候群》にかかった古今の作家たちにまつわる数々のエピソードがつづられているこの小説には、プラトンから、トルストイ、ホーソン、メルヴィル、カフカ、サリンジャーといった有名どころから、無名の作家にいたるまで、個性的な人物たちにまつわるおかしくも悲しい数々のエピソードが、断章の形で詰め込まれている。とてつもない博識家のビラ=マタスは、この作品以後もその博大な知識を生かして『モンターノの病気』、『パサベント博士』、『ダブリネスク』などの小説やエッセイ集『神経質な町から』など次々に話題作を発表していて、ヨーロッパ、とりわけフランスでは人気作家になっているとのことだが、それも当然と言えるだろう。

  アルカラー・デ・エナーレス滞在中のある日、いつものようにセルバンテス書店をのぞくと、主人のハビエルさんが顔を輝かせて、これは掛け値なしに面白い小説だから、ぜひ読むようにとぼくの手に押しつけたのがサンティアーゴ・パハーレスの『螺旋』だった。出版社に勤める主人公が社長に呼ばれ、自社で出している大ベストセラーを書いた作者が実は偽名で、正体はもちろん、所在も分からない、どうしても連絡を取りたいので、何とかして見つけ出すようにとの密命を受ける。わずかばかりの手がかりをもとに主人公はピレネーの山奥の小さな村に赴き、そこでさまざま事件に巻き込まれるというのが中心的なストーリーで、それと平行してある麻薬中毒者の物語が語られていくという内容だが、とても20代の作家が書いたとは思えないほど完成度の高い物語小説だったので、驚かされた。パハーレスの作品の魅力は、ストーリー展開の巧みさもさることながら、人と人のつながり、人間のやさしさ、愛情が重要なテーマになっており、それがこの作家の作品を何よりも魅力あるものに仕上げている。

  ひょんなことから出会ったスペインの現代作家の作品を読みながら、底力のあるスペインの現代文学から目が離せない、と改めて実感している。今後とも、スペインの作家たちの紹介が進んで、心に届く、豊穣な文学の贈り物を日本の読者にもたらしてくれるように願っている。


参考:上記三人の訳書
フリオ・リャマサーレス  
『黄色い雨』(拙訳 ヴィレッジブックス)
『狼たちの月』(拙訳 ヴィレッジブックス)
『無声映画のシーン』(拙訳 ヴィレッジブックスより2012年5月刊行予定)
エンリーケ・ビラ=マタス 
『バートルビーと仲間たち』(拙訳 新潮社)
『ポータブル文学小史』(拙訳 平凡社)
サンティアーゴ・パハーレス
『螺旋』(拙訳 ヴィレッジブックス)
『キャンバス』(拙訳 ヴィレッジブックス)

木村榮一(きむら・えいいち)
1943年、大阪市生まれ。神戸市外国語大学名誉教授。現代ラテンアメリカ文学の精力的な翻訳・紹介で知られる。著書に『ラテンアメリカ十大小説』(岩波書店)ほかがあり、訳書には上記以外にマリオ・バルガス=リョサ『緑の家』(岩波書店)など多数。
今年4月18日にエッセイ『翻訳に遊ぶ』(岩波書店)を刊行。