清水憲男先生(上智大学名誉教授)

『ドン・キホーテ』後篇が出版されて400周年を迎える今年は、日本におけるスペイン語文学界の第一人者のおひとりで、スペインの知識人たちも感嘆する‘洗練された’スペイン語を操る清水憲男先生に、『ドン・キホーテ』の魅力についてご寄稿いただきました。

『ドン・キホーテ』完結400周年への思い

 最近、スペイン国営テレビからインタビューを申し込まれた。インタビューを好まないこともあってお断りしたが、『ドン・キホーテ』後篇について是非と食い下がられて根負けした。質問は予想の域を出るものではなかった。たとえば「日本で『ドン・キホーテ』はどのように解釈され、どのようなインパクトを与えましたか?」私は少々意地悪く、だいたい次のような答えを返した。

日本にあって『ドン・キホーテ』はほんの一握りの人を除き、「解釈」されてはいない。想像か空想にとどまっている。解釈されるためには作品が読まれなくてはならないが、スペインでもそうであるように、ほとんど誰も通読してはいない。『ドン・キホーテ』全体を真摯に読んだ場合にのみ、いわゆるインパクトがありうる。実際の原作が長大であることによるインパクト、実際に読むことによって、破格の内容を秘めた作品であることを知るインパクト・・・皮肉とも取られるこのインタビューが採用されて放送されたか否かは知らない。インタビュー終了後、スペイン人アナウンサーも『ドン・キホーテ』を通読していないとのことだった。

今年が『ドン・キホーテ』の後篇出版、つまり作品の完結400年に当たるということで、各種のイベントが企画および実行されている。それ自体に異論があろうはずもない。問題があるとするなら、こうした企画が単なる記念行事もしくは話題づくりとしてのhomenajeにとどまってしまうことだ。作品の内実をつまびらかにして謙虚に高揚する代わりに、論者自身のアピールに腐心するのが垣間見えてしまう。

1547年のセルバンテス生誕400周年、1605年の前篇、1615年の後篇出版、1616年のセルバンテス没後300周年として、それぞれ今から100年前にスペイン語圏で出版された文献を読むと、単なるhomenajeを越え、「いかに原作に肉薄して、盛り込まれた魅力をどこまで読みとってやろうか」との気迫が伝わるものが多い。homenajeは本来そうでなくてはなるまい。

断るまでもなく文学作品は研究者や評論家のためではなく、いわゆる読書好きのために書かれるのを第一義とする。なかでも『ドン・キホーテ』は、その内容の奥行きや多義性はさておき、決して難解な書物ではなく、読者にとって限りなく「やさしい」。この場合の「やさしい」は「易しい」と「優しい」を兼ねる。

飛躍するようだが、『ドン・キホーテ』の魅力はロマネスク壁画に通じるのではないかと、私は勝手に思っている。ロマネスク壁画は、そこに描き込まれた宗教・神学上の知識を持たぬ者にも力強く訴える。「高尚な芸術」以前の、ひたむきな「職人技」が、見る者の感性を激しく揺さぶる。他方、壁画のモチーフに通暁した研究者には、「どうぞもっと近づいて、納得がゆくまでご覧になってください」と優しく語りかける。素人と研究者との障壁を霧消させるほどの振幅を持つ。ある意味でセルバンテスも同様で、セルバンテス当人は高等教育を受けたわけでもなく、彼の知識の多くは偶然の独学や耳学問に負うところが大きい。作品中に散見するラテン語の知識も確たるものではない。それでも結果として研究者の分析に泰然と向き合うと同時に、そうした「腑分け」とは無縁の一般読者を、分け隔てなく快く受け入れてくれる。

『ドン・キホーテ』後篇出版400周年に照準を合わせるかのように、昨年から今年にかけて、2つの話題がジャーナリズムで取り上げられてきた。第一はセビリアでセルバンテスの直筆署名を含めた新資料が数点発見されたこと、第二はセルバンテスの遺骨発掘作業がマドリードの三位一体女子修道院で行われ、該当する可能性の高い複数名の遺骨が出てきて、DNA鑑定を含め、特定化の作業が進められているというものだ(後者に関しては日本の新聞でも取り上げられた)。こうした試みに冷や水を浴びせるつもりは毛頭ないが、作品としての『ドン・キホーテ』はもちろん微動もしない。

つまるところ作品そのものに回帰するしかない。これほどの長編を通読するのは、現代社会のリズムにそぐわないに相違ない。だからこそ、その価値は一層高まるとの逆説が成立する。真の古典は現代にあって、ますます重厚な輝きを増し、間接的ながら現代への的確な警鐘を打ち鳴らす。我田引水に聞こえようが、現代のスペイン文学作品で、なぜこのような作品が邦訳されるのかと首を傾げたくなるものが少なくない。時代風潮のなかで一定の興味をそそるにとどまり、過去や未来の重みに耐えることのできぬ「現代」文学を読むよりも、時間のロスを覚悟で、人間この未知なるものに肉薄する古典に、少なくとも私はこだわり続けてゆきたい。

「一冊の書にこだわる人を私は恐れる」(hominem unius libri timeo)は聖トマス・アクイナスの言葉とされてきたが、本当に聖トマス・アクイナスの言葉である確証はない。しかも『ドン・キホーテ』という単一作品は、いくつもの作品が複合的に絡み合った作品で、「一冊の書」ではない。この一冊は何冊、何十冊の書を抱合する。ジャンルも文字通り小説、詩、説話、文学論が多彩に盛り込まれている。

今から半世紀以上前、ボルヘスは「本書全体が、ドン・キホーテの死というこのシーンのために書かれた」と断じた。だからといって長い前章群を飛ばしたうえで、早まって最終章を読んではならない。安直な「おいしいところ取り」は必ず失敗する。感動で鳥肌の立った腕をさすりながら読むことになる最終章は、前篇からの集積、後篇で錯綜しながら展開してゆく覚醒を前提とするからだ。一大交響曲が楽曲のたゆたい、曲折を経て劇的な終焉に至るとしたら、『ドン・キホーテ』も然りである。

こうして書いてきた私だが、実は『ドン・キホーテ』を日本語の全訳で通読したことは一度もない。欲深い私は、16,7世紀を生きたスペイン人セルバンテスが、どのような生々しいスペイン語で作品を描き込んでいったかを原文で味わい尽くすべく、執拗にスペイン語で読み続けてきた。そして原文でしか味わいにくい箇所に遭遇するスリル(?)も楽しんでいる。シェイクスピアに及ばないとはいえ、『ドン・キホーテ』の邦訳もそれなりに刊行されてきた。また今後新しく刊行されてゆく新訳に期待をしたいが、おそらく一番ポイントになるのは、翻訳者がスペイン語の古文に本当にどのていど通暁しているかだ。

たしかに日本語と較べたらスペイン語の歴史的展開は緩慢で、スペイン語を母語とする人なら特に専門教育を受けずとも、『ドン・キホーテ』全体像を解するのにさほど苦労しない。とはいえ刊行されて400年ともなれば、意味や語法にそれなりの変化が出ないはずがない。それを踏まえた各種注釈本が出てはいるが、それはスペイン語に直感力を有するスペイン語圏の人向けだ。怖いのは、現代スペイン語の感覚で理解しても、たまたま意味が一応通じてしまう箇所だ。実際には現代スペイン語とズレがあるのに、訳者が違和感を懐かぬまま翻訳してしまう場合がある。『ドン・キホーテ』に限らず、我が国におけるスペイン古典文学の翻訳は、この種の誤謬が少なくない。今後出されるであろう『ドン・キホーテ』の各種翻訳が、スペイン語の古文に通暁した翻訳者の手になり、原文のすばらしさを今まで以上に的確に味わわせてくれるものとなることを願ってやまない。

清水憲男(しみず・のりお)

上智大学大学院修士を経て、マドリード(Complutense)大学より文学博士号取得。上智大学教授、サラマンカ大学客員教授、早稲田大学教授を経て退任。上智大学名誉教授。スペイン王立アカデミー客員。国内外で多数の研究発表のほか、著書に『ドン・キホーテの世紀』(岩波書店)、『新・スペイン語 落ち穂ひろい』(白水社)、訳書にゴマラ『拡がりゆく視圏』(岩波書店)、O. パス『大いなる文法学者の猿』